昭和46年5月22日 朝の御理解★
御神訓『若い者は本心の柱に虫を入らせなよ』
本心の柱と。本心ということは、神様に頂いたままの心、そういうふうに思います。ね。それが本心。「本心に立ち返る」ということを申します。ね。あるいは、心の良い人が「本心に立ち返って」ということ。本心とは、神様に頂いたままの心だと。その本心の柱に虫を入らせなよ。
植物でもやはり、若い時、若い根の時、まだほんとに根を張らない時に、虫が付いたりいたしますと、やはり伸び悩みますように、「三つ子の魂は百まで」というようなことを申しますよね。その本心の柱に、虫が、虫を入らせなと。ね。
これは、信心をさせて頂いておっても、いわゆる信心が有り難いと、有り難いものだなぁと分かるようになってまいりましても、信心の若い間は、迷いが早い、迷いが生じる。迷いの、ほんとのことを分からして頂く為に迷う事もよいですけれども、それが、ほんとなことが分からんなりに、迷うと思ってしまう。
ほんとうなことが分かるということと、その、本心というと、いうものとのかかわり合いとでも申しましょうかね。ほんとうなことが分かっておると、いわゆる本心の柱に虫を入らせるようなこともない。ほんとうなことが分かっておると、迷うこともないんですけれども、ほんとのことが分かっていないところから、いろいろと迷いが起きてくる。いわゆる、ほんとうなことが分かっていない時分に虫がつきやすい。
いよいよその、この御教えの前に、『信心は本心の玉を磨くもの』と、やっぱり本心ということ。そしてその、「信心とは本心の玉を磨くものである」ということ。これは、いわゆる、間違いのないほんとうなことだと、そう思うですね。信心とは本心の玉を磨くもんだと。信心はおかげを頂くものだというようなものではなくて、信心とは本心の玉を磨く。
ところがそれが分かっておりますと、どのような場合に直面いたしましても、まあ虫が付こうといたしましても、そこから虫を言わば寄せ付けん。( ? )おかげが受けられる。
確かに「三年五年の信心では迷いやすい、十年と信心が続いたら」と仰せられるように、迷いの虫が付く。それは、信心が本心の玉を磨くものというように分からず。信心とはおかげを頂くことだというような思い方のところから、そういうことになってくるんだと、こう思うですね。
昨日、久留米の石井きよしさんのお届けがありました。せいのすけさんの子供が事故死に遭いまして。昨日が告別式でございました。で私が、祭主を仕えさして頂いておかげを頂きましたが、もうほんとに悲しい葬式でした。その、(?)小学校の一年生になったばかりの子供が、それこそ、悪夢のようにあっという間に事故にあって、そして死んでしもうたんですから。
それを、式が済みましてから、兄さんのきよしさんと、それからお父さんになりますせいのすけさんとが、挨拶をいたしましたが、その挨拶を聞かせて頂きながら思うたんですけれどもね。
さすがに兄のきよしさんが、いわゆる、まあ今日の御理解から言うと、虫を寄せ付けないとする精進というか、まあ努力というか。または、ほんとうなことが分かっておるというか。そういうようなことを、がお話の端々に感じられました。
それは、あのように(?)ですから、変わったことを言いますね。子供の、いわゆる甥になります子供が、ああしてケガをいたしまして、病院に行った時に、一番始めに、お願いに来たのがきよしさんでしたが、六時頃。「実は、自分の本心で参って来たのではない」と言うんですよ。弟たち夫婦が参ってくれと言うから参って来たんですまあ変わったことを言う人じゃと思ってですね、自分の甥ですから、今日でもその、ほんとに、私その時に、あの、きよしさんの様子を、言うならもの生きた幽霊のようにしてました。前の晩、まあ一睡もしてないようなことなど、その弟達夫婦が、その嘆き悲しむのを見て、自分も一緒に、まあ嘆き悲しんでおるわけですけれもね。
いわゆる、自分の本心を取り損のうておると。自分の心をどこにか、言わば置き忘れておるように思わせて頂いたんですけど、ね。だんだん時間が経つにしたがって、いわゆる本心を取り戻してきたわけですね。そして、神様の一分一厘間違いのない働きの中に、こういう悲惨事なではあるけれども、こういうことが起きてきたんだ、ということが分かってきた。ね。そこからようやく、本心を取り戻さして頂いた。もうほんとに変わった人である。おもしろい人でもあるとは思いましたが。
昨日私、午前中に若い先生方が、全員(?)にまいりまして、ちょうど、一時からの告別式でしたから、十二時頃迎えに来てもらいました。私と光橋先生がまいりましたが。もう何かしらんけど、自動車の中で、ずーっとこっからせからしかって思うくらいにはしゃぎまわってるんですよね。
「先生あの、美空ひばりの歌などでもかけましょうか」ち、ようそんなこと言うとるですもん。「いや、私は今日は静かにしときたい」ね。「んならそうですか」と言いながらも、横にかけておる光橋先生に、もう何かと話し掛けておることが、神様の間違いなさ、神様のほんとに間違いない働きを一生懸命、(また先週から?)聞かせてもらっておったお話を、あの、話しておるもんですもんね。
ですからもう、そういう、言うなら人間の我情かましいことやら、自分の本心の、を取り乱すようなことが、に直面いたしましても、やはり、信心が、まあどういうようなものであるか、というようなことを分かっておりますと、それを取り戻すことが早い。ね。
例えば信心しよってこういう事が起きた、というようなことではなくてです、ね。それはあまりのことでありますから、やはり、心も乱れ、本心を取り戻すのにちょっと時間はかかりましたけれども、ほんとうのことが分かっておるから取り戻しができるんです。また、神様の働きというものをほんとに分かっておるから、それができる。
だから、それまでには、先ほどのきよしさんの信心の例をとりますと、まあ、いろいろに勉強もいたしましたし。いわゆる合楽の信心をまるきりまな板の上にあげて、切り刻みするようなことも言うたりしたりすることもありますけれども、そういう中から、信心、いわゆる、まあ、天地の親神様と私どもとの、そのかかわり合いといったようなことをほんとに分かってる。
ですから、例えばせいのすけさんが、お話いたしました中に、まあ涙ながらに皆に挨拶しておりましたが、ね。今日はこんなにたくさん、思いもかけない会葬者があったことをお礼を言うておると同時に、もうこの事がね、もう憤りで、そのみえられない、憤りの為に苦しいということを訴えておりましたですね。
ほんとに、事故のもとである、松田塗料かなんかっていうところの店員さんが、玉串をあげます時なんかはもう、ほんとにやはり、憤りでしたでしょうね。夫婦のものが、もうそれこそ声を偲んで泣いておりましたが。「ほんとに、こん奴がおらなかったら、家の子供にこういうことなかったろものに」と、まあ思うのでしょうね。
ところがきよしさんになりますとね、それを実に神ながらなものとして頂いておるんです。それを分からして頂いた、と言っておるのです。昨日までは、心の中に落ち着きがとれなかったけれども、昨夜お通夜をしておる時に、まあ、心中祈念をさして頂いておる時に、あの、まあ、神様にお知らせを頂いたのが、★ボールを投げるところ。そのボールがそこへ落ちるところを頂いた。だからその、甥の寿命というのは、その神様に投げられたボールの落ちたところが、今日のこの亡くなったということだと思うた、とこう言うておりました。
けれども、その事もです、もう生まれると同時に、その事は決められているのであって、ね。「ああしとけば良かった」「こうしとけば良かった」と言うのではなくて、言うなら、もうそれはさだめであったと言うておるんです。
しかも、いわゆる、さだめであるという印、または、神様の御守護の中にある、お守りの中にあって、こういう悲しいことが起こったんだということは、信心をさして、合楽で信心をさして頂く者ならすぐ感じられるだろう、と言うて話しておりましたが。
第一、昨日の告別式の司会をする人が、「松村」かなんかっていう人。それから、その、事故の車、遭ったその塗装屋が「松田」かなんかっていう塗装屋。それから、たまたま告別式に、小学校の一年生の代表して、玉串をあげ、代表で弔辞を読ませて頂いたその子供が松何とかっていう、やっぱ松の付いた。
そういうね、そういう感じただけでも、「松」と言えば、合楽で一番大事にされる、私ども九州の信心の大本とって下さった方達がみんな、「松」の字が付いた方達ばっかりだが。私どもの心が迷いに迷い、乱れに乱れておる者の上にです、こういう間違いのない働きの中に、起きてきたのぞと教えて下さる、それを感じ取らせて頂いたというて、ほんでまあ、もうすでに本心の玉を取り戻しておりましたよね。
本心に立ち返っておる。しかし、それが信じられておるというところに、きよしさんの長年の、言わば、神様にある意味では対抗しながら、合楽の信心にある意味では、とやこう言いながら、いわゆる、一番確信に触れたところのものには、触れておったということです。
これはもう、合楽の間違いなさといったようなおかげをおかげといったようなものであっていたというのじゃなくて、信心の何たるかというものを、言うならば、「信心は本心の玉を磨くものぞや」とまでは分かっていないにいたしましてもです。ね。その本心と神様とのかかわり合いといったようなことを身の上で分かっておったから、取り戻しができた。
これが、どうでしょうか。「信心とは本心の玉を磨くものぞや」というようなことが分かっておったら、ほんと言うたら、時間をかけずに、心は乱れもしなかったでしょう。と私は思いますね。
だから、「信心とは本心の玉を磨くもの」ということのこれがほんとのこと、と同時に、その本心と神様とのかかわり合いというようなものをです、身の上に分からして頂き、また、体験の上に分からして頂く。
例えば、天地の親神様というかたは、まあ、(微妙?)不可思議というか、デリケートというかね、不思議なおかたである。もう、例えば私どもの心の中に、腹立ちといったような、よくきよしさんが言いますね、心の中に腹を立てるというような虫がはびこってまいりますと、その、腹が立ってはならないようなことが、だんだん次々と起きて来るということを言っておられました。だから、腹を立てちゃ馬鹿らしか、とこう言うんです。
これはもう、あの人の自願であり、まあ、けれども同時に、決議でもあると思います。間違いのない理論です。ですからもう、のらりくらりと、ある意味でそんな感じがしますけれどもね。昔から立てません。ね。腹立ちという虫が、心の中にはびこってくるとですね、腹を立てねばならないようなことが次から次と起きて来るっちゅう。ね。
ですから、そういうところを頂いておりますから、自分は、一番、まあ言うなら、貧乏くじを引いたようなところにありながら、そのそこんところに甘んじておるというか、その事に「有り難いなぁ」とまでは感じていない。けれども、いつも甘んじて、まあ言うなら、縁の下の力持ちをいつもやっているというタイプのかた。珍しいかたです。
だからこれが、本心の(汗ども?)磨くものぞやというようなことが分かっておるならばです、その事自体が有り難くなってくるだろうと思うですね。縁の下の力持ちをしておるということに、私有り難い。そして、ほんとに力を受けて行くでしょう。
力を受ければ、いつどのような事が起こっても、昨日、しきりに、その、( ? )お世話なった自動車の中で。先日お届けに来た時には、あれは、自分の事なら、決してあげん、子供達はしませんでしたですけれども。男の子になってから、取り乱したりしてから、何回も光橋先生のようなこと言ってるんです。
けれどもこれは、大坪のことであろうが、自分のことであろうが、ほんと言うたら同じことなんだよと。ね。そこんところに、「本心の玉を磨く」ということが信心だと。同時に、その本心と神様とのかかわり合いということをです、ね。悔やんだり腹を立てたりするという、例えば腹を、ね、腹立ちの虫というものが、心の中にはびこってくると、ね。悔やむ心が起きて来ると、悔やまねばならないようなことを呼び寄せるような結果になるんだ、というようなことを、この体験から、言わばあるんだとそのことをきよしさんに、素晴らしいとそういう意味で申しますけれど。
悔やんだり、言わば腹を立てたりしない。だから、そのことが悔やまんで済むことが、または、腹を立てんで済むことが有り難い、ということになるのは、そのことをもって「本心の玉を磨く」ということになると、そのことのおかげで磨かしてもろうた。そのことのおかげで自分の心が、より豊になったということになりますから、答えは喜びであり、有り難いというものになるんです。ね。
まあこれは昨日のきよしさん所の告別式に合わせて頂いて、せいのすけさんは、もうとにかく憤りで眠られない。憤りでもうどうしようもない、と言うて嘆き悲しんでおります中にです、ね。兄さんのきよしさんは、ね、その、言うならば、自分ところの甥を殺したその運転手のことですらを神様の働きと頂いております。ね。これは、本心と神様とのかかわり合いというようなものを知っておるからであります。
ですから、ここんところをもうひとつ進んで、「信心とは本心の玉を磨くものだ」と分からして頂いておったら、ね。その上に、ね、私は、もっと豊な、まあなかなかね、そういう悲しい事に直面して、その事をお礼を申し上げるということまではなかなかできんにいたしましてもです。心からそれを詫びる心が生まれて来ると思うですね。人間の事ですから、どこにお粗末ご無礼があるやら分からない。ね。
例えば昨日の御理解をしいて申しますと、教祖様がお子様を亡くされた時に、ね、お二人のお子様を亡くされた時に、一人は助かり一人は亡くなられた時。ね。神様に、ね、「私の信心の不行届きが、子供を亡くするような結果になりました」と詫びておられる。
そして、助かったのは、もう、「(まるっと?)そのままあなた様のおかげで助かりました」と言うておられる。もうお礼とお詫びを一緒にできておられる。ね。
ですから、きよしさんは、そこんところをですね、これはもう神の摂理のままに、もう決して、交通事故というその事で亡くなったけれども、それも神様のお約束事。ね。さだめであると、そこは本心と天地の親神様とのかかわり合いというものを分かっておるから、そう思えた。( ? )であるというような事が分かってしておりましたらですね、おそらくここには、まず喜びは、喜びと有り難いとは言えないにいたしましても、ほんとに、「日頃私どもの不信心、ほんとに相済みません」というお詫びがなされるところでしょうね。
「本心の柱に虫を入らせな」と。これ確か二、三日前も頂きましたがね、今日もまたここを頂きまして、私、この本心本心ということを二つ続けてありますことに、今日気付かせて頂いたんですけれども。信心は本心の柱を、本心の玉を磨くものとか、本心の柱とかと、本心ということは、私どもが神様に頂いたそのままの心ということ。
だから信心とは、それをいよいよ清め上げていくというか、磨き上げていくことであって、うん。その為に、その本心の柱に虫を入らせない精進をしなければならないということ。同時に、その本心、自分達の心と神様とのかかわり合いということが分かってまいりますと、ね。
例えば、恨みとか憤りとかいったようなことに、言わばおられないような事に直面いたしましても、憤るとか恨むとか、言うなら、信心で言う神様が一番お嫌いになるような心を使わんですむということ。同時に、もう一歩進んで、「信心とは本心の玉を磨くことである」ということが、これが「三年五年の信心では迷いやすい、十年と信心が続いたら」というようなところまで、お互いの信心が本格的なものになってきておりますとです、そこには、まず、お詫びの心とか、お礼を申し上げるような心にすら、だんだんならして頂けるものだといったようなことを申し上げたですね。どうぞ。
明渡 孝